液晶画面には、私の発言を最後に止まったままのログが表示されている。 彼にしてみたら全てが唐突だったに違いない。 反応が返ってこないのも仕方がないことだった。 恐らく、先程の話を自分の中で反芻して消化しようとしているのだろう。 ここで、『退室はしていないけど、とっくにロムっているのかもしれない』と考えないようになったのは進歩かもしれない。 佐久間先輩に指摘されて以来、何事も良くない方向に考える習慣が少しずつではあるが改善されてきていると思う。 2年前から止まったままだった自分を変えていこうと、出来ることから努力をしている。 きっとそれが、進む為の第一歩だろうから。 そして、依然変化の無いままの画面に視線を戻す。

全てを聞いて、彼はどんな反応をするんだろうか。
例えそれがどんなものであっても――私は揺るがない。 もう迷わないと決めたから。



10分は経っただろうか。 変化の無かった画面に、新たな発言が表示された。

<さん>
『何、カズマくん』
<……話してくれて、ありがとう>
『なんで……?』

続く言葉は入力することは出来なかった。 酷く頭が混乱していたから。 あんな話をした後だったから尚更だろう。 どうして、彼が私に御礼を言うんだろうか。 御礼を言うべきは私の方なのに。 彼自身にそのつもりはなくても、あの時に私が救われたのは確かだから。 彼に感謝こそすれ、彼に感謝されることなんてないはずだった。

<僕が、ずっと知りたいと思ってたから。さんのこと>
『ずっとって、いつから?』
<最初から。自覚したのは何度かやり取りをした後だったけど>

今思うと、最初のメールを読んだ時からだったと思う。 そう続けられた。 どうして返信をくれたのか、あの『キング・カズマ』とメールが出来るようになったのか。 それは疑問に思っていたことだった。 けれど、彼とメールが出来る、というその事実があれば良かったから、理由なんてものは深く考えていなかった。 本当に笑ってしまえるほどに自分勝手。 彼が知りたいと思ってくれたなんて、こんなに嬉しいことはないというのに。 でも、その感情は何処から来たんだろうか? 何となくだけれど、それはカズマくんも結論が出ていないことのような気がして、聞くことを躊躇った。 カズマくんが私のことを知りたいと思っていてくれた。 それだけで、今は充分な気がする。

<だから、話してくれて嬉しかった>
『迷惑じゃなかった……?』
<話聞くつもりで来たって言ったでしょ。迷惑なんかじゃない>
『そっか。それなら良かった。全部話すって決めたけど、それでカズマくんに嫌われたりしたら、やっぱり悲しかったから』
<一度気に入った人を嫌いになること、ほとんどないから>

嫌われていなかったと聞いて、画面の前でほっと胸を撫で下ろした。 どう思われても構わないから、カズマくんに全てを伝えようと決めた。 依存なんてものじゃない、あまりに重過ぎた感情。 そう自覚があったからこそ、嫌われるんじゃないかと何処かで不安に思っていた。 カズマくんはどう思っているかは分からないけど、私にとっては友人と思えるようになっていたのに、嫌われてしまうのは辛い。 そう思っていたから、安心した。

<あのさ、聞きたいことが幾つかあるんだけど、良い?>
『良いよ、長い話に付き合って貰ったし。それに、隠すようなことはもうないから』
<じゃあ、まず一つ。絵はずっと描いてなかったわけじゃないよね?>
『そうだね。2年前から全く描いてないわけじゃない。今年の4月頃から、簡単な静物画くらいなら描けるようにはなってたかな。でも、どうして?』
< Chants de Maldoror >

この質問は確信を持ったものだったということが、その言葉で分かった。 Chants de Maldoror ――マルドロールの詩。 シュルレアリズムの手法の一つである、デペイズマンの原点になっているとされる詩。 そして、The Empire of Lightとは別の、私のもう一つのブログの名前。 TELよりも前から持っていたもので、こちらではキング・カズマの考察は一切していなかった。 OMCとは全く関係の無い場所。

<ごめん。悪いとは思ったんだけど、調べさせて貰ったんだ>
『それも、「知りたかった」から?』
<うん。自分のこと勝手に色々と調べられて、良い気はしないよね>
『でも、「キング・カズマ」は情報が溢れてるから、私が一方的にカズマくんのこと知ってる状態だったわけだし、仕方ないかな。何も話さなかった私も悪いしね』

私がメールで彼に話したことは、内容のないものばかりだった。 だから、カズマくんが私のことを調べたとしても、それは責めるようなことではない。 私が何も話そうとしなかったことが招いたことだから。 それに、The Empire of Lightの情報から、Chants de Maldororまで辿り着くのは相当の時間が掛かっただろう。 由来がどちらも作品名であるから、そこに私の名前を加えたところで単純な検索ではヒットしない。 英語表記であることから、海外のサイトも検索に引っ掛ると思う。 それでも、彼は私のブログまで辿り着いたのだ。 私のため、というのは少し違うかもしれないけど、そこまでしてくれたことが、少しだけ嬉しかった。 そこまでカズマくんに思っていて貰えていたということが。

『なら、もしかして全部知ってた?』
<絵を描いてることは知ってたけど、それ以外は知らなかったよ>
『もし知ってたなら、無駄な話しちゃったかと思った』
<だから、さっきの話で漸くさんのことを知れて嬉しかったって言ったでしょ>
『そうだったね』
<次の質問いっても良い?>
『どうぞ』
<深い意味なんて無いのかもしれないけど、「その時」って括弧に括ってあったのは何で?>

そんなところまで見てたんだ。 きっと読み返していた時に気付いたんだろう。 自分でも無意識の内に、その言葉を括弧の中に入れていた。 それは大事な、とても大事な言葉だったから。

『意味はちゃんとあるよ。ある人にね、言われた言葉なの』
<ある人?>
『うん。話の筋から外れるから、さっきは話さなかったことなんだけど、2年前、休職になった直後だったかな。電話があったの』
<その「ある人」から?>
『そう。上司、あ、責任者の人の知り合いだったんだけどね。私が辞めたいって言い出した時に相談したみたいで、休職扱いにしてくれたのもその人の提案だったんだって』
<ふーん、良い人だね>
『休職扱いじゃなかったら、私、これから進めなかっただろうし、そのことには凄く感謝してる。でも、それ以上に感謝してることがあるの』

現在の私の状態が休職で無かったら、これから復帰することは出来なかっただろう。 私の中で前に進むということは、あの仕事に戻るということと同義だから。 逃げ出してしまった仕事に戻る、それが進むということだと思ってる。 あの人が居なかったら、上司は私の辞職願いをそのまま受け入れていたに違いない。 全ては「進む」ということが前提になっている。 進む段階に至れたのは、あの時の言葉が心にあるから。

『「どんな人間にも休息は必要。あんたはこれまで頑張ってきたんだから、今はゆっくり休みな。その時が来たら、また頑張れば良いさ。絵は嫌いじゃないんだろう? だったら、大丈夫」』
<その人が、そう言ったの?>
『一言一句違わず、覚えてる。逃げてるって自分でも分かってたから、周囲の人間が皆責めてると思ってた。そんな時に、私を認めてくれて、大丈夫だよって言って貰えた。直ぐには受け止められてなかったけど、忘れたことは無かったよ』
<それで「その時」なんだ>
『カズマくんを追い掛ける内に、いつまでも逃げてちゃ駄目だなとは思ったけど、ずっと契機が掴めなかったの。けど今年の夏休みにこれが「その時」なんだな、って思えたから、進もうって決められた』

カズマくんは私を救ってくれた。 あの人から貰った言葉は、それよりも前から私の心を支えていてくれたんだと思う。 私が気付かなかっただけ。

『あんたなら、いつかは必ず戻れるよ』

言葉として聞いたわけじゃないけど、そう言ってくれていた。 だから、カズマくんと同じくらい、あの人にも感謝をしている。

『2年も掛かっちゃったけど、漸く進むって決めたから。カズマくんに伝えたみたいに、その人にも、御礼ちゃんと言いたいんだけどね』
<しないの?>
『連絡先知らないから。上司に聞けば分かるのかもしれないけど』
<……あのさ、もしかしたらだけどその人、僕も知ってる人かもしれない>
『本当に? 小磯先輩のことと言い、世の中って狭いんだね』
<でも、確信は無いから。それに、もし、本当に僕の知ってる人だったら……>
『どうかした?』
<凄く言いにくいんだけど……その人には、もう会えない>
『そう、なんだ』
<僕の知ってる人じゃないかもしれないから>
『ううん、多分そうなんだと思う、何となくだけど。そっか、会えないのか』

『会えない』というのは、きっと亡くなってしまったということだろう。 年齢を聞いたわけではないけど、電話越しの声でもかなり高齢だろうということは分かった。 だから、何も不思議なことではないのだ。 それでも、あの人がこんなにも早く逝ってしまったことが信じられない。 陣内栄さん。 話したのはたった2年前なのに、今はその存在が凄く遠い。

『決心するのが、ちょっと遅かったかな』
<さん……>
『ずっと逃げてた私が悪いんだし、気にしないで。ね。それでカズマくん、他に質問はある?』
<……なら、最後に一つ>

画面の前でカズマくんはどんな表情をしているんだろう。 話してしまったことを後悔しているのかもしれない。 彼が悪いわけじゃないのに。 私が話題を変えようとしていることを察して、それに乗ってくれた。 気を遣わせてしまったかな。

< Chants de Maldoror に昨日上がっていた絵は、さんが描いたもの?>
『うん。8月に入ってから描き始めたのでね、久々にきちんと彩色までして描き上げたの。普通だったらブログに上げることは無いんだけど、2年振りに描いたから。記念にと思って』
<あれはデジカメの写真?>
『そうだよ。デジカメで撮ってその上ネットだと現物とかなり遠くなってしまうからあんまりしないんだけど、今回は特別』
<それでも充分、惹き込まれた。現物見てみたいな>
『昔よりはずっと技術も落ちてるよ。でも、見たいって言って貰えるのは嬉しいな』

明確な決心は付いていなかったけれど、「その時」が来たと分かったから描き始めた作品。 久しぶりだから、やはり時間は掛かったけれど、どうにか描き上げることが出来た。 どちらのブログの名前にも共通している、私の原点、シュルレアリズム。 両親に見せるのは躊躇われて、けれど誰かに見て貰いたかったからブログに掲載することにした。 それをカズマくんが見てくれているとは思わなかったけれど。

<あの絵なら大丈夫だよ、さん>
『え? 大丈夫ってどういうこと?』
<そのまま進めば良いってこと。戻るんでしょ、仕事に>
『うん、そのつもりだけど……』
<頑張って。応援してるから>

彼に全てを話した時点で、もうこれでいいと思っていた。 嫌われなかった、受け止めてれくれた。 それだけで、良かった。 けど、それでも何処かで望んでいる気持ちもあった。 彼に背中を押して貰うことを。 振り返らない為の、最後の一押し。 もう充分だと思っていたのに、彼はそれをくれた。 『頑張れ』と言ってくれた。

『ありがとう、カズマくん。私、頑張るから』


(もう立ち止まらない。振り返らずに前だけを見据えて)