どうしても言えなかった
「昔から傷は舐めておけば治るって言うよね。口の中の傷とか薬つけなくても治るから、確かに唾液には多少の治癒効果があるらしいよ」
「ふーん」
「でもそれって自分の唾液に限った話で、他人の唾液は単に傷口を雑菌まみれにしてるだけなんだって」
「そうなんだ」
「だからね、消毒液が手元にあるんだったらそれを使った方が良いということなんだけど……龍くん、聞いてる?」
「聞いてるよ」
そう言いながらも彼が私の話を聞いていないのは明らかだった。
いや、聞いてはいるけど聴いてはいないのか。
先程から変わらず、彼は私の傷口にご執心で一向に止める様子はない。
何かと乾燥しがちなこの季節、うっかり紙で指を切ってしまうなんて良くあることだ。
しかし、その傷口が思いの外深かったのが良くなかった。
さっさとティッシュを当てるなりしておけば良かったのに、それなりに痛かったこともあって傷口をぼーっと眺めていたら彼に気付かれてしまった。
そして今の膠着状態に至るというわけである。
「血液なんて鉄分の固まりなんだから美味しくないんじゃないの」
「別にオレも美味しいとか思ってないけど」
「そうよね。もしそんな吸血鬼みたいなこと言われたら、君を追い出す算段をしないといけないところだった」
「うん。オレはさ、さんの血が綺麗な色してるから見てたいだけだから」
ばっと勢いよく彼から左手を奪い返すと、引き寄せてあった薬箱の消毒液を掛けてガーゼで覆う。
サージカルテープでガーゼを固定すれば傷口は完全に隠された。
そこまで終えると漸く人心地が付いたので雨生の方を伺うと、彼は玩具を取り上げられた子どものような顔をしていた。
「あー勿体ねぇの。せっかく綺麗だったのに」
「そんな顔しても駄目。だって身の危険を感じたんだもの」
「心配すんなって。その気になったら殺っちゃう前にちゃんと出てくし、そーいう約束じゃん? 今のはちょっとした事故だって」
「まぁそうだけど…………もしかして、龍くんってサイコパスの気があったりする?」
「そもそもサイコパスってのが何だかオレ知らないんだけど」
「んー簡単に言うと、一種の人格障害のことかな」
サイコパスとは平均基準から逸脱しその結果、自らないし社会が悩む人格のことを指す。犯罪者の原因を人格にあると見なして理解する為に提唱された概念、だった筈だ。
診断基準の中には、表面上の魅力とか寄生的な生活スタイルとか衝動性とかあるから、結構当て嵌まっているような気がする。
実際にテストしてみたわけではないし、項目も正確に覚えているわけではないから決め付けてしまうことは出来ないけれど。
「だからもし龍くんがサイコパスなら、シリアルキラーじゃなくてサイコキラーだなって」
「あぁ、それならオレのこと書いてる週刊誌の見出しとかで見たことあるかも。つまり、そのサイコパスってやつならサイコキラーってこと?」
「そういうこと、だと思う。私も詳しいことは良く分からないの、やってること自体に変わりはないのにね」
「それだけ知ってれば十分でしょ、生きてくのにそんな知識必要ないし。前から思ってたけどさぁ、さんって変なこと知ってるよね」
「これぐらい調べれば誰でも直ぐに分かることだって」
「だから、普通なら調べようなんて思わないってこと。本当に普通のOLなワケ? 実はアンタも人殺しだったりするんじゃないの?」
どんな意図を含んでの質問なのかは分からないが、聞いてる内容の割には彼の口調から真剣さは感じられない。
けれども、その瞳からは彼独特の残忍さが覗いていた。
先程の血を見たことによる気分の高揚がまだ残っているのかもしれない。
返答によってはまた命の危険に晒されるということも有り得るのだろう。
だからと言って、私の答えが変わるわけではなかった。
「私は殺人鬼じゃないよ。信じるか信じないかは、君次第だけど」
人殺しに興味があるのも、妙なことに詳しいのも、全て理由はある。
しかしそれを口にしてしまえば、私自身がそれを認めたことになってしまうから。
それでも、彼に嘘は吐いていない。
だからというわけではないだろうけれど、雨生はふっと目元を緩めると手を上げて降参のポーズを取った。
「信じるよ、一応聞いてみただけだし。それにオレ、アンタが人殺しだとは思ってないから」
「え、だってさっき『前から思ってたんだけど』とか言ってなかった?」
「そう言った方が信憑性出ると思って。まぁ、ちょっとだけ疑ってたことがあったのもホント」
「心当たりが全くないんだけど、何か疑われるようなことした?」
「前みたいにオレに色々聞かなくなったでしょ。聞くことなくなっただけかもしんないけど、引っ掛かったんだよね。オレから聞いたこと使って殺ってたりすんのかなぁって」
「有り得ないから。でも、言われてみれば最近は龍くんにあんまり話聞いたりしてなかったかもね」
「だろ? そりゃ1ヶ月も一緒に暮らしてたら話題なんてなくなるのも分かるけどさ」
「そうね、知りたいことは大体聞き尽くしてしまったということもあるけど……」
彼を拾ったのは、その人殺しとしての在り方に興味があったからだった。
聞くことがばくなってしまったというのも事実だが、彼の趣味の話を聞くということに思い当たらなかったということもある。
人殺しというものに対する私の関心は変わってはいない。
それはつまり、彼と一緒に暮らしているということだけで満足してしまっていたということなのだろう。
気付いてしまった。
私は一人の殺人鬼ではなくて、雨生龍之介という人間に興味を持ち始めていることに。
どうやら私は彼に恋をしてしまったらしい。
「他にもなんか理由あんの?」
「ううん。それでも今日みたいに思い付いた時には聞いてたはずなんだけど、と思って」
「そういえば時々あったような気もする。とにかく、要するにそれってオレに飽きたってことじゃん?」
「だからって今直ぐ出て行けとは言わないよ。これから聞きたいことがまた出てくる可能性だってあるわけだし」
「そう言って貰えると助かるケド。でも実際、いつまでも此処に居るわけにはいかないよなぁ」
『私の身の安全が保証されてる限りは、幾らでも居て構わないよ』
最初に決めた約束。
それをいつものように軽く口にすることが出来なかった。
きっと、彼に居て欲しいと思う理由が別に生まれてしまったからだ。
今の私があの約束を持ち出して彼を引き止めるのは駄目な気がする。
けれども、本当の理由を言うことも出来なかった。
言ってしまったら、その瞬間この心地良い関係は壊れてしまうだろうから。
だから、彼のその言葉に私は何も言えなかった。