手を伸ばした先へ
あの日、雨生龍之介という個人が好きなのだと気付いて以来、彼との生活は一転してぎこちないものとなってしまった。
原因は
そうして1週間を何とかやり過ごして迎えた日曜日。
休日出勤はない職場だということはとっくに知れてしまっているので、流石に今日ばかりは出掛けるわけにはいかなかった。
けれども、憩いの場であったはずの我が家はぎすぎすとした空気に包まれており、こんなことなら無理にでも用事を作って出掛けるべきだったかもしれないと、既に後悔し始めていた。
私自身が気まずいということもあるが、何よりも、雨生の視線が痛い。
仕事が忙しくて家にあまり居ないなんてままあることで、珍しいことでもなんでもない。
にも関わらず、彼が探るような目つきでこちらを見ているということは、私の態度に何かしら不自然な点を見付けたということなのだろう。
なるべくこれまで通りになるよう善処はしてきたが、全てを隠せるわけではない。
何かを隠そうとすれば、其処には必ず違和感が伴うことになる。
一挙一投足を観察するような視線から逃れる術は今のところ見当たらない。
こちらから先手を打つべきか、相手の出方を伺うべきか。
薮をつつくような真似はしたくないが主導権を握られてしまうのも良くない気がする。
結論から言ってしまえば、そんな私の悩みは無意味だった。
何故なら私の答えが出るよりも、彼が口を開く方が早かったのだから。
「あのさ、さん。なんかオレのこと避けてる?」
「避けてるつもりはないけど……どうしてそう思うの?」
「オレのこと全然見てないから。今までは何してても見られてる、ってか観察されてる感じがしてたんだけど、それがこの1週間はさっぱり」
「私ってそんなに龍くんのこと見てた?」
「見てた見てた。最初は鬱陶しかったりもしたけど、それがずっと続けば慣れもするっていうか、むしろ今じゃ見られてない方が違和感あるってワケ」
「自覚なかったなぁ」
「つまり、今は意識的に見ないようにしてるってことでしょ。で、理由は?」
「それは……怖いから、かな」
顔を見てしまったら、何もかもを曝け出してしまいそうで。
気持ちを告げてしまったら、彼との共同生活は終わりを迎える。
それが私には怖かったのだ。
ありのままを話すことは出来ない。けれども、嘘は吐きたくない。
そんな身勝手な理由から真意を意図的にぼかして伝えたのは自分だ。
だから彼が別の意味で受け取ったことも、その結果としてこの事態を招いたとことも、全ては自業自得なのだろう。
勢い良く壁に叩き付けられた背中の痛みを、何処か冷静に私は受け止めていた。
吐息が掛かるほどに近い位置に雨生の顔がある。
けれどそれが決して胸を高鳴らせるような状況ではないことは、ぎりっと音が出そうなほど強く肩に食い込んだ彼の指が教えていた。
「はっ、怖い? アンタが今更そんなこと言うのかよ。嘘吐くにしても、もうちょいマシなものにしたら」
「っ、嘘じゃない。そうじゃなくて、私は――」
「ん? あぁそっか、俺と一緒に住んでること誰かさんに知られるのが怖いってこと。残念だけど、それもう手遅れだからさ」
「生憎と、そんな相手に心当たりはないんだけどっ……!」
「へぇ、そう。アンタの言い分はどうでもいいから、ちょっと黙ってくれる?」
肩を押さえ付けていた手が離れ、首にひやりとした感触が添えられる。
彼がそのまま力を込めれば、私の生命活動はいとも容易く停止してしまうだろう。
『なんで』とか『どうして』とかそれよりも。
このままではまずい。
直感的にそう思った時には既に身体が動いていた。
頭が忘れても身体が覚えているとは良く言ったもので、彼の腕を掴んだ次の瞬間には雨生が床に伏していた。
ほとんど無意識の動作だったので手加減は一切出来ていない。
呻き声を漏らし起き上がる様子のない彼を見て、そのことに気付いた私は慌てて彼に駆け寄った。
「龍くんっ! ごめんね、大丈夫? 背中痛くない?」
「ってぇ……あーうん、オレは大丈夫だよ。それよりさんは平気?」
「え、うん。ちょっと肩が痛いけど、これくらいなら」
「そっか、なら良かった。にしても普通さ、殺されかけた相手の心配する? まぁ殺そうとした相手の心配してるオレが言えたことじゃないんだけど」
言われてみて、はたとそのことに気付いた。
つまり言われなければ気付かなかったということで、それまで私の頭には自分のせいで彼が痛がっているということしかなかった。
直前に殺されかけた人間のすることとしては危機感に欠けていたかもしれない。
それでも、駆け寄る以外の選択肢など頭にはなかったのだから。
「別に私は怪我したわけじゃないから。それに君と生活するって決めた時にこういうこともある程度は予想してたことだし。怪我って言うなら龍くんの方が酷いと思う」
「怪我したとかしないとかそういう問題じゃないでしょ。第一、さんのは正当防衛なんだからさ」
「でも……」
「でもじゃない。分かってると思うけど、あそこで床に叩き付けられなかったらオレはアンタのこと殺してた。だから気にしないでよ、オレも止めて貰えて良かったし」
腕を支えにして上半身を起こした彼がへらりと笑う。
先程まで雨生から発せられていた圧迫感はすっかり影を潜めていた。
「……もう落ち着いた?」
「んーそれなりには? って言っても抑え効かなくなったらまた同じことすると思う」
「つまりそれは私に継続的な殺意を持っている、と」
「そーいうこと、ちょっとした拍子にざくっと刺しちゃうかもしんないし。だからさ、オレはこの家から出てくよ。さんだって死にたくないでしょ?」
「そうね。まだ死にたくはないけど、理由くらいは聞かせて欲しいかな。私、君を怒らせるようなことした? この1週間あんまり家に居なかったから?」
「微妙に違うけど、さんのせいと言えばそうかも」
心当たりと言うと気持ちを自覚してからの振舞いしかないけれど、やはり私が何かしてしまったことは確からしい。
結局のところ、私が彼への気持ちを自覚してしまった時点で、どう転んでもこの共同生活には終わりしか待っていなかったということだ。
他にどうしようもなかったとは言え、突きつけられた現実が気持ちを塞がせる。
釣られるように自然と視線も下がっていた。
だから、彼の両腕が私の方へ伸びてきていたことも、包み込むように回された腕が私の身体を引き寄せたことも、彼の胸元に飛び込んでその温もり感じるまでは全く気付かなかった。
「龍くん……?」
「俺、さんのこと好きだよ。さっき気付いたばっかだけど」
「どうして」
「『どうして』って言われたら、『殺したいと思ったから』なのかなぁ。うん、好きだから殺したい。これが理由だな」
「君らしいね」
「それはどーも。いつもならこのまま殺しちゃうんだけどさ、さんとは約束してるから殺さない。それなりに世話になったし、それくらいはオレも守るから」
「うん……」
「直ぐ出てくってのは無理だから今日のところはこのまま出掛ける。でもって明日、さんが居ない間にでも戻ってきて荷物まとめて出てくから」
「じゃあね」という言葉と共に、頬に柔らかいものが触れた。
予想もしていなかったことが一度に起きたからか頭が上手く回らない。
何が起きているかを理解した時には自分を包み込んでいた暖かな温もりは離れていて、いつもと同じ身のこなしで音もなく立ち上がった雨生は既に玄関へと向かっていた。
「ちょっと待って!」
「待たない。いつまた殺したくなるか分かんないし。だから、追い掛けて来たら遠慮なく殺すよ?」
「そんな脅しみたいなこと……」
「みたいじゃなくて脅してんの。さんが死にたくないなら、もうオレには会わない方が良いってこと」
引き止めなきゃいけない。
分かっているのに、そんな時に限ってふと先ほどの感触を思い出してしまった。
首に添えられた手、無機物を見るような冷たい眼。
今更ながらにぞくりとした悪寒が全身を駆け抜けて、思わず両腕で身体を抱き締める。
座り込んだまま動けないでいる私に彼がちらりと視線を向けるも、それだけだった。
「ばいばい、さん」
扉の向こうに消えていく彼が最後にそう言ったのが聞こえた気がする。
音を立てて扉が閉まってしまっても尚、私は動かなかった、動けなかった。
伸ばそうとした手は彼を捉えることなく、そのままぱたりと床に落ちる。
私の身体は彼を恐怖し、拒絶してしまった。
それが紛れも無い事実だ。
それでも、私はその手を全力で取らなくてはいけなかったのだ。
だって、怯える私を見詰める彼の瞳はとても寂しそうだったのだから。