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授業からの解放を告げるチャイムと同時に、課題のプリントの回収が命じられた。小テストでもないので、わざわざ一番後ろの席の人が集める必要もなく、いつものようにプリントは後ろから前へと回されていく。後ろから2番目の席である私は早々に回ってくるであろうプリントを受け取るために後ろを振り向き、そこで予想外のものと遭遇して動きを止めることになる。
「はい、さん」
そう言って差し出されたプリントを受け取ることもなく、私の視点はある一点へと集中していた。振り向いたまま一向にプリントを受け取る様子のない私に、彼――橘真琴くんは不思議そうに首を傾げる。その動作に合わせて彼の前髪がぱさりとそれに掛かり、私は更に眼が離せなくなってしまった。
「プリント、早く回した方が良いんじゃない」
横から掛けられた七瀬くんの声に我に返った私は慌ててプリントを受け取ると、謝りつつ前の人へと回す。既に休み時間気分で教室内はがやがやと騒がしくなりつつあったことからプリントを集め終わったことで号令も無しに先生は空気を読んでそのまま教室を出ていってしまった。先ほどの衝撃は未だに全身を脈打たせていて、これ以上どきどきしたら倒れてしまうのでないかと思うほどに心臓の音は大きく聞こえている。それでももう一度確かめずには居られなくて、私は再び後ろの席を振り向くのだった。
眼に入ってきたのは丁度それを外そうとしている彼の姿で、思わず「ちょっと待って」と声を掛けてしまった。その声を受けて反射的にフレームを持ったまま動きを止めてくれた彼は、ぱちくりと瞬きをしながら私の方を見ていた。レンズ1枚を隔てるだけで、その瞳も何だかいつもとは違うように見えてしまう。
「どうかした、さん? 俺の顔になんか付いてる?」
「ううん、そうじゃなくて。橘くん、眼鏡掛けるんだなぁって思って」
あぁ、そういうこと。それで先ほどからの私の不審な様子に納得がいったのであろう、彼は頷いた。その拍子に、また前髪が眼鏡に掛かってそれだけで私の心臓はどきりと跳ねた。
「黒板の文字がちょっと見づらいから授業中だけ、ね。そこまで悪いわけじゃないから普段はかけてないんだ」
「そうだったんだ。授業中だけならこれまで知らなかったのも当然だね」
後ろから2番目の私の後ろの席ということは当然橘くんの席は一番後ろということになる。しかも窓際の一番後ろという好条件。その隣の席は幼馴染であるらしい七瀬くんなので、橘くんの眼鏡姿に今更どうこう騒ぐこともないのだろう。そもそも彼は騒ぐような性格はないし。そして授業中ともなれば、気軽に後ろを向くようなこともそう滅多にない。橘くんが眼鏡を掛けるということも知っている人が居なかったのも、無理はないということだ。
「もう外しても良いかな?」
「……勿体ない」
思わずぽつりと零れてしまった本音はどうやらしっかりと橘くんの耳にも届いてしまっていたらしい。彼はいつものように眉をハの字にして少しだけ困ったように笑っていた。
「眼鏡掛けたままだと、近くを見るにはあんまりピントが合わないんだよね」
「あ、ごめん、気にしないで。外してくれて良いよ? 変なこと言っちゃってごめんね」
「眼鏡、自分ではそんなに似合ってないなって思ってたんだけど」
「そんなことないよ! 凄く似合ってると思う! 普段の橘くんも格好良いけど、眼鏡掛けた橘くんもまた別の魅力があって良いと思うよ!!」
はっと我に返った時には既に時遅く、本人を目の前にして口にするべきではないことを力説してしまった後だった。穴があったら入りたいとはこういう状況を言うのだろう。席を立ち上がってこの場から逃げ出すのは簡単だけれども、この気まずさは必ず後を引くことになる。そう思うと、赤くなっているであろう頬を両手で押さえながら下を向いて、私は動けずにいた。橘くんの顔を直視する勇気がない。
「さん」
変わらない調子で、優しく名前を呼ばれて恐る恐る私は顔を上げる。それでもまだ顔を見ることは出来なくて、視線は彼のネクタイと机の間辺りを彷徨っていた。そこで机の上に置かれた眼鏡を見て、もう外したんだな、とそんなことをぼんやりと考えていた。
「さん」
再度名前を呼ばれて見上げた彼の顔に浮かぶ表情は私の予想していたものと違って、何処となく照れているようにも見えた。微かに赤くなった頬をかきながら、
「ありがとう。そう言って貰えて嬉しいよ」
と言った彼は、今日一番私の胸を高鳴らせた。眼鏡を掛けていようといまいと、橘くんは私の心臓を休めさせてはくれないらしい。
「うちのお兄ちゃんは本当にかっこいいんだから」
事あるごとに蘭ちゃんはこの言葉を口にする。クラスにはお兄さんやお姉さんの自慢をする人は他にもいるけれども、その中でも蘭ちゃんの主張が一番目立っている。クラスの中心のような存在である蘭ちゃんがそんな風に自慢するほどなんだから、きっと本当に格好良いのだろうということになり、当然「会ってみたい」という流れになる。けど、蘭ちゃんは一度としてそのお願いを聞いたことはなかった。「お兄ちゃんは高校生だから学校終わるの遅いの」というのが彼女の断る理由だけれど、それは表向きなんだと思ってる。多分、真琴お兄ちゃんはそうやって人に注目されたりするのがあまり好きではないから。実際にクラスメイトを引き連れていって紹介しても、きっと真琴お兄ちゃんはそれを笑顔で受け止めてくれる気がする。でも、そうやって真琴お兄ちゃんに迷惑を掛けてしまうのが蘭ちゃんは嫌なんだと思う。こうして、「蘭ちゃんのお兄さん」はとてもかっこいい人だということは知れ渡っているけれど、直接会ったことがあるのはクラスでは私くらいしか居なかった。それはきっと、蘭ちゃんと蓮くんの「幼馴染」という特権のおかげだ。
蘭ちゃんは友達も多いから放課後はいつも誰かしらに誘われていて、色んな子と遊びに行くことが多い。蘭ちゃんが一人で出かけてしまうと、残された私と蓮くんは互いの家に遊びに行って二人でゲームをしたりする。蓮くんたちの家で遊んでいる時は、その内に蘭ちゃんが帰ってきて一緒に三人で遊ぶ。大体いつもそんな感じだった。私も蘭ちゃんと一緒に誘われることもあるし、蓮くんも男の子たちと遊ぶこともあるから、いつもというわけではないけれど、私が橘家に遊びに行くことはかなり多い気がする。もしかしたら真琴お兄ちゃんに会えるかも、と期待している部分も大きいと思う。そんなことを考えながら遊びに行っているというのは何だかずるい気がして、蓮くんや蘭ちゃんに申し訳ないことをしているような気分にもなる。それでも、幼稚園の頃みたいに毎日会えなくなってしまったから、短い時間でもいいから会いたいと思ってしまうのだ。
「真琴お兄ちゃんって彼女居るのかなぁ……」
いつものように蓮くんと二人でゲームをしている時に、ふと頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまった。今日学校で1組の子がうちのクラスの男子を好きだとか、2組の二人が付き合ってるとかそういう話が出たから、それが頭に残っていたのかもしれない。突然そんなことを言い出したものだから、隣の蓮くんはコントローラーを握りながら不思議そうに首を傾げていた。テレビの画面ではポーズの文字が点滅している。そんなに真面目な質問ではなかったのだけど、ゲームを中断させてしまったみたいだった。
「昼休みにそんな話が出たから、真琴お兄ちゃんはどうなのかなって思ったんだけど、ごめん、気にしないで。ゲームの続きやろう?」
コントローラーのstartボタンを押した、と思ったら直ぐに再びポーズ画面へと戻ってしまった。私は間違いなくstartを押したのだから、ポーズを押したのは隣に居る蓮くんしかいない。どうしたのだろうか。と思って彼の方を見ると、蓮くんは私の方をじっと見ながらゆっくりと口を開いた。
「……お兄ちゃんに彼女は居ない、と思うよ」
それが先ほどの私の質問に対する答えであると気付くのにはちょっと時間が掛かった。どういう意味なのかが分かったところで、思わず口をついて出たのは
「本当に?」
という一言だった。居ないと良いな、なんて淡い期待は抱いていたものの、あんなにかっこいい真琴お兄ちゃんに彼女が居ないなんてことは有り得ないと心の何処かでは覚悟をしていたから。だから、蓮くんの言葉を疑ったわけではないのだけど、思わずそう口にしてしまったのだ。
「多分、だけど。彼女が居たとしてもお兄ちゃんは僕たちには気付かれないようにしてると思うから、もしかしたら居るのかもしれないけど。今は居ないと思う」
「そうなんだ。なんか意外だなぁ」
「でも、これで安心したでしょ?」
「どうして?」
「だって、ちゃんはお兄ちゃんのことが好きなんでしょう?」
「なっ!」
つい大声を出してしまいそうになった口を慌てて両手で塞ぐ。1階には蓮くんたちのお母さんも居るのだから、あまり大声を出しては迷惑を掛けてしまう。手を離してゆっくりと深呼吸すると、とんでもないことを言ってくれた蓮くんに向き直った。
「気付いてたの? いつから?」
「結構前から」
「蘭ちゃんも?」
「ううん、蘭は知らないよ。知ってるのは僕だけ」
「誰にも言ってない?」
「蘭にも言ってないんだよ? もちろん、お兄ちゃんにも言ってない」
少しだけ安心した。蓮くんがそうじゃないというつもりはないけど、蘭ちゃんは蓮くんよりもずっと真琴お兄ちゃんのことが好きなように見えるから。そんな蘭ちゃんに私が真琴お兄ちゃんのことが好きだと知られてしまったら、蘭ちゃんに嫌われてしまうような気がしていた。真琴お兄ちゃんのことは好きだけど、それと同じくらいに蘭ちゃんも蓮くんも大切だから嫌われてしまったらと思うと怖かったのだ。いずれ蘭ちゃんにも話さなくてはいけないとは思っているけど、今はまだ蘭ちゃんには打ち明けるのは難しいと思っている。だから、蓮くんが私のことを嫌ったりしないでくれたことと、蘭ちゃんに話さないでいてくれて、私は心の底から安心していた。
「ありがとう、蓮くん」
「お礼を言われるようなことしたつもりはないけど。お兄ちゃんはかなり難しいと思うけど、応援はしてるよ。頑張って」
「うん。あ、でも真琴お兄ちゃんに彼女が居なくても好きな人とか居たら、どっちみち私なんかじゃ相手にして貰えないよね」
「うーん……好きな人も居ないんじゃないかな。居たとしても僕には分からないと思うし」
「えーと、例えば一番良く話題にする人とか」
「それだと、ハルちゃんかな」
「ハルちゃん?」
「そう。僕とちゃんみたいな感じ、お兄ちゃんの幼馴染? なんだと思う。うちの目の前に住んでるよ」
「え、え、私会ったことないよ?」
「そういえば、ちゃんが居る時にはうちに来たことなかったかも」
「どんな人?」
「……きれい? ってよくお兄ちゃんは言ってる気がする」
真琴お兄ちゃんの幼馴染。その『ハルちゃん』って人は、きっと凄く大人で美人な人なんだろう。蓮くんの話を聞いている限りでも、簡単に想像が付いた。直ぐ近くに、そんなきれいな人が居たら、私なんかを真琴お兄ちゃんが相手にしてくれるわけがない。一歩進んだかと思ったら十歩くらい後ろに下がってしまった気分だった。でも、目の前に住んでいるのなら、真琴お兄ちゃんが帰ってくる時に『ハルちゃん』も一緒に帰って来ているはずだ。それなのに、私はその人に一度も会った覚えがないというのは不思議だった。そんなにきれいな人なら、絶対に気付くはずなのに。
初恋は幼稚園の頃だった。ということはわりと良く聞く部類に入る話だと思う。相手はだいたいの場合は幼稚園の先生で、それは男の子でも女の子でも一緒だった。私の初恋も例に漏れず、幼稚園の頃だった。でも、その相手は幼稚園の先生ではなくて、毎朝幼稚園バスが来るバス停に男の子と女の子をお見送りにきているお兄さんだったのだ。
ほとんどの子はお母さんやお父さんがお見送りに来ていたから、そのお兄さんはとても目立っていた。大人の中に子どもが混じっているのだから当然だ。けれどもお兄さんは他の大人と変わりなく、毎朝遅れることなく二人を連れて現れた。見送られる側である私はその後のことは分からなかったけれど、お兄さんはいつもランドセルを背負っていたから、二人をお見送りした後にはそのまま学校に向かっていたんだと思う。私のお母さんも、いつも一人でお見送りに来ているお兄さんのことを褒めていた。まだ小学生なのにしっかりしているとか、きちんと挨拶が出来る子とかそんな感じのことを言っていたと思う。私は一人っ子だから、最初の頃は「毎日お見送り来てくれるお兄ちゃん」という存在が、ただ羨ましいと思っているだけだった。それが「初恋」と呼べるものに変わったのは、お兄さんの弟妹である二人と仲良くなって、家に遊びに行くようになってからだった。
双子の蓮くんと蘭ちゃんはその時から今でもずっと仲良くしている、いわゆる幼馴染という関係だ。双子だからどっちがお姉さんとかお兄さんとかは特に決まってないみたいだけど、蘭ちゃんの方が気が強くてお姉さんって感じがする。蓮くんはいっつもそんな蘭ちゃんに振り回されている。私はと言えば、どちらかと言うと同じ女の子同士の蘭ちゃんよりも蓮くんと仲が良かった。蓮くんと二人でのんびりしていると蘭ちゃんに急かされる、なんてことは見慣れた光景だ。そんな蘭ちゃんもお兄さんの前ではそんな気の強さも隠れて甘えん坊みたいになってしまうから、お兄さんはすごいと思う。
真琴お兄ちゃん。それが私の初恋の相手だ。別に告白したわけでもないし振られたわけでもないので、私の初恋は現在進行形だったりする。蘭ちゃんと蓮くんが「お兄ちゃん」って呼んでいるから私も真琴お兄ちゃんと呼んでいて、それもあってか真琴お兄ちゃんは私のことも本当の妹みたいに扱ってくれる。でも、それはつまり真琴お兄ちゃんにとって私は妹のような存在に過ぎないということだ。真琴お兄ちゃんと私の年の差は6つ。向こうは高校生だし、小学生なんてそういう対象にはならない。分かっているけど、それでも私はこの不毛とも言える初恋をもう4年も続けている。まだ5年生なのに随分としっかりしているのね、とか近所の人に言われるのもだいたいこのせいだと思う。少しでも真琴お兄ちゃんに近付きたくて、勉強は一生懸命してるし、4年生になってからはなるべく子どもっぽいこととかもしないようにって気を付けている。無駄な頑張りではあると思うけど、橘家に遊びに行く時は精一杯可愛い格好をしていくようにもしている。小学生と高校生では学校が終わる時間も違うので真琴お兄ちゃんに会えることは滅多にないし、昔みたいに一緒に遊んで貰うことも少なくなったけど、でも絶対に会えないと決まったわけじゃないから。会えた時には真琴お兄ちゃんはいつものふわっとした笑顔で笑って私の名前を呼んでくれるから、それだけで私はすごく幸せな気持ちになれる。
「こんばんは、真琴お兄ちゃん」
「ちゃん、こんばんは。これから帰るの、送ろうか?」
「平気だよ、日も長くなってきたからまだ明るいし」
「そうは言っても、小さい子をこんな時間に一人で帰すってのはやっぱり心配だよ」
「小さい子って……そりゃ真琴お兄ちゃんからしたらわたしはまだまだ子どもだろうけど。でも今はまだ6時だよ?」
「それでも俺は心配なの。とりあえず今日はお兄ちゃんに大人しく送られておくように」
「今日は、って真琴お兄ちゃんいつもそう言って送ってくれるくせに……」
ぶつぶつ言いながらも、結局は私は真琴お兄ちゃんの申し出は断れないのだった。こんな時間から私のことを家まで送ってくれていたら真琴お兄ちゃんがご飯を食べる時間が遅くなってしまうとか、宿題とか高校生はいっぱいあるって聞くけど大丈夫かなとか、迷惑掛けちゃってるなとか思っているのに、それでも真琴お兄ちゃんに甘えてしまっている私はやっぱり子どもなんだと思う。
一度だけ「わたし、迷惑じゃない?」って聞いたことがある。それを聞いて真琴お兄ちゃんは驚いたように目をぱちくりさせた後、ぽんぽんって頭を撫でてながら「ちゃんのこと迷惑なんて思ったことはないよ。だって、妹のことが嫌いなお兄ちゃんは居ないでしょ」と言ってくれた。結局その質問は、私をますます真琴お兄ちゃんのことが好きにさせただけだった。妹のように扱われることに不満を持ちながらも、その反面、真琴お兄ちゃんがそう言ってくれるならまだ妹でいいかなとか思ってしまう私はとても現金な性格をしている。いつか、いつか……と思いながらもう4年も過ぎてしまった。真琴お兄ちゃんという呼び方もずっと変えられないままだ。私がもう少し大きくなって、せめて中学生にでもなったらその頃には「真琴お兄ちゃん」じゃなくて「真琴さん」って呼べるようになれたら良いなって。そしていつかは、妹じゃなくて一人の女の子として見れくれるようになってくれたら嬉しいなという淡い期待も持っている。でも今はまだしばらくは、妹でいいかなって、私の速さに合わせてゆっくりと隣を歩いてくれているお兄ちゃんを見上げながら思った。
フェンス越しにプールを見詰めるその背中にとても良く似た相手を知っていたから、その人物が此処に居るわけがないと頭では分かっていたのに、「ザキちゃん」と真琴はその名前を口にしていた。相手に呼び掛けるほど大きな声ではなかったが、それでも相手は自分に掛けられたものだと分かったのだろう。果たして振り向いたその顔は、当然のようにかつての知り合いのものではなく、それでも全く知らない相手ではなかった。
「『ザキちゃん』って誰?」
「小学校の同級生で同じスイミングクラブに通ってた女の子の名前だよ」
「初恋の相手?」
「いや別にそういうのではないけど」
「ふーん、まぁ私は『ザキちゃん』ではないから関係ないけど。そんなに似てるの?」
「顔を見て話してると、そんなには似てないかな。さんはこんな所で何してたの?」
昨年も同じクラスだった。それほど親しい間柄ではないが、1年間も同じ教室で机を並べていれば誰であれ顔くらいは覚えるというものだろう。逆に言ってしまえば、真琴にとって彼女はその程度の認識しか持っていなかった。だから彼女がフェンス越しにプールを見詰めている理由を推測することすら出来ない。出来るのは、疑問を疑問のままぶつけることだけだった。
「水泳部、橘くん達が作ったって聞いたから、プールを見に来たの」
「興味あるの? 水泳部。さんが泳ぐの好きだったなんて意外だな」
「違う、逆。泳ぐのは嫌いだし、プールも嫌い」
「そっか。なら、尚更どうしてこんな所に来たの?」
「好き好んで水なんかに入る物好きを拝みに来た」
淡々と言葉を紡ぐ様子からして、それが照れ隠しや誤魔化しの類ではなく、本心からそう思っていることが分かってしまい、口許が引き攣るのを真琴は抑え切れなかった。本人を前にして「物好き」と言い切ったはといえば、そんな真琴の様子など気にも留めず、再び視線をプールへと戻していた。その視線の中に潜む感情を、彼は知っている。かつて自分の中にも存在していた、いや、もしかしたら今もまだ存在しているのかもしれないそれの名前は、
「怖い? 水」
「……そう、だね。怖いよ」
「いつから?」
「いつからって?」
「だから、いつから水を怖いと思うようになったのかなって」
「なにその質問。私が元々は水が好きだったみたいな」
「あれ、違うの?」
「……違わない、けど。誘導尋問されてるみたい」
「そういうつもりはないんだけどね。話したくないなら良いけど、話す気があるなら俺で良ければ聞くよ」
「だから、そういうところが……はぁ、もういいや」
話さなかったら帰さないみたいな雰囲気出しておいて選択肢も何もないし。そんなことを零しながら、はかつて小学生の頃に自分の身に起きた出来事を語った。波間に漂う浮輪に身を委ねていたら、いつの間にか陸から離れた沖合へと出てしまった。それだけの良くある話だった。だが、実際にそれがどれほどの恐怖であるかは体験した者にしか分からない。見渡す限り一面の青。自分がどこから来て、どちらに進むべきかも分からない。そんな中、いつ辿り着くとも知れぬ陸を目指して進む、それはなんて孤独な戦い。波に呑まれることもあった、世界が水に閉ざされた、浮輪だけが唯一の命綱だった。
「まぁ陸からそんなに離れてたわけでもないし、その内にライフセーバーの人が助けに来てくれて一件落着、おしまい」
は大したことのない軽い話のように締めたが、そんな簡単なことではないということが真琴には分かっていた。それ以来、は海にも行っていなければ、水に入ることもしていないのだろう。海には魔物が住んでいる。一度その考えに捕らわれてしまえば容易に抜け出せるものではなく、それは心の奥底にこびり付いて離れない。水に近付けば、嫌でもその存在を思い起こしてしまう。それでも真琴は泳いだ、泳げてしまった。だが、はそうではなかったのだろう。一度その恐ろしさを味わってしまったから、今では彼女の心にも魔物が住んでいる。
自分と同じ境遇である。だから真琴は彼女を放っておけないと思った。「物好きを見に来た」と言ったが、あれは確かに本心ではあったが、別の意味も含まれていたのだろう。本当に水に近寄りたくもないと思っているのならば、わざわざ自分からこんな所まで来ないはずだ。水の中で泳ぐことを楽しんでいるような相手を見れば、恐怖も薄れるのではないか。がどんな風に考えて此処へ来たのか正確なことは真琴には分からないが、概ねそんな感じのことを考えていたのだろうということは推測出来る。望んでない相手に無理強いすることは出来ないけれど、相手もそれを望んでいるのであれば、あとはきっかけさえあれば良いのだろう。そのきっかけに自分がなろう、と真琴は思った。
「あのさ、もし良ければだけど部活ない時間にプール入ってみる?」
「……橘くんは私の話を聞いてなかったのかな? 私、水怖いって言ったよね? 君が聞きたいって言ったから、理由も説明したよね?」
「うん。だから、リハビリっていうのとは違うかもしれないけど、するなら手伝おうかなと」
「私、水に入れるようになりたいとか一言も言ってなかったと思うんだけど」
「そうだね。でも、そうなのかなって思ったから言ってみたんだけど、違った?」
「……違わない。ってさっきもこんなやり取りした気がするんだけど。あぁ、なるほど。こうなったらもう君のペースなわけか」
これまでで一番大きな溜息を吐くと、降参というように手を上げてみせた後、はくるりとその背を翻す。言葉でのはっきりとした返答は無かったけれど、真琴には彼女が先ほどの提案を受け入れたのだということが分かった。彼女が少しでもその気になってくれたというそれだけで今日は十分過ぎるくらいであり、わざわざその背中を呼び止める気もなかった。だから、そのまま校舎へと続く道へと消えていくと思われた彼女が立ち止まったのは真琴が呼び止めたわけではなく、彼女の意思だった。
「言い忘れてたけど、私泳げないのは最初からだから」
「……どういうこと?」
「泳げないから、浮き輪なんか使って海に浮かんでたんでしょ。プールに入れるようにしてくれるってことは、泳げるようにしてくれるってことだよね?」
は一度も自分が泳げるとは言ってない、勝手に勘違いをしていたのは真琴の方だ。だから、やられた、なんて思うのはお門違いも良いところなんだろうけど、してやったり、という悪戯めいた表情を浮かべている彼女を見ていたら、そう思わずにはいられなかった。
水を掻き分けるように進む彼を私はただ、じっと見詰めていた。端まで言ってターン。そしてまたターン。その繰り返し。どれくらい泳いでいたのか途中から数えるのを止めてしまったから分からないけれど、随分と長いこと泳いでいたような気がする。それもこの炎天下では体感時間がおかしくなってしまっているだろうから、時間感覚なんてものは当てにならないし、本当はそんなに長い時間ではなかったのかもしれない。それでも私には彼が泳いでいる時間が、彼が水の中に居たその時間が、とてつもなく長く感じられたのだった。それはきっと、私は彼が泳いでいるところを見るのは今日が初めてだったからだろう。
私と彼、橘真琴は長いとは言えないが短くもない時間を共に過ごしており、それなりの付き合いであると言える。にも関わらず、私は見たことがなかったのだ、彼が泳いでいる姿を。出会ったのが彼らが通っていたというスイミングスクールが閉鎖された後だったから仕方ない。という言葉で片付けられる話ではない。だって、真琴も遙ちゃんと一緒に夏になると泳いでいたのだから。そこに何やかやと理由を付けられて、私は連れて行っては貰えなかったけれど。
だから、本当に初めてだったのだ。目が放せないとはこういうことをいうのだろう。泳いでいる彼は、普段の彼とは違っていた。まるで別人のように。丘に打ち上げられた魚が水を得たようにとはどちらかと言えば、遙ちゃんのことであろうが真琴だってそう遠くはない。だた、とても綺麗で、とても怖かった。水を弾く筋肉に覆われた腕の動きを見ていると、背筋を何かが駆け上がっていくような感覚がして目を逸らしてしまいたいのに、そう思えば思うほど、私の目は彼に水の中の彼に引き付けられるのだった。この感情が何処から来るのか分からない。だからなのか、既にプールから上がったはずの彼でさえ、水を滴らせているその姿を見ていたら、なんだか知らない人のように見えてしまって。気付いたらその身体に倒れ込むように私は抱きついていた。いや、しがみつくと言った方が近いかもしれない。
「え、なに、熱中症? だから日陰から見てて良いよって言ったじゃない。大丈夫?」
「違う、そうじゃなくて……」
「どうかしたの?」
「真琴だよね?」
「……うん? 俺以外の誰かに見えるの?」
「見えない」
私が何も言う気がないと分かったのか、真琴はそれ以上は何も聞こうとはせずただ頭をぽんぽんと叩いてくれた。それがいつもと丸っきり同じ動作だったからか、それだけで私の心の中で渦巻いていた何かが静まっていくのを感じた。間違いなく、彼は私が知る橘真琴なのだとそう思えたからかもしれない。知った気になっていたから、見たこともない顔を見せられて動揺してしまったのだろう。きっと、たったそれだけのことだ。
「ところでさ、いつまでこうしてるつもり?」
「もうちょっと」
「制服濡れちゃうよ?」
「良いよ別に。この炎天下ならどうせ直ぐに乾くし」
「そういうことじゃないんだけど……分かった、気が済むまで付き合うよ」
水滴を吸って張り付いた制服越しに触れ合う肌はつい先ほどまで水の中に居たはずなのにその冷たさは感じられなくて、あぁ夏だな、なんてそんなことを私は考えていた。
「橘くんはさ、なんでそんなに甘やかしてくれるの?」
嬉しいけど、私このままだと駄目になりそうだよ。それを聞いて彼女は何も分かってないな、と思った。優しいから甘やかしてるわけじゃない、癒そうとか慰めようとか考えてるわけでもない。ただ、甘やかし続けていればきっと、彼女の隙間は俺にしか埋められなくなるんじゃないか、とは考えていたかもしれない。だから多分そう、駄目にするために、俺は彼女を甘やかすんだろう。
「どんな時でも頼って欲しいからだよ、俺を」
笑顔と共に口を突いて出た言葉に嘘はない。俺を、俺だけを、頼って欲しい。じわじわと侵食していったそれは、やがて自由意志すらも奪うだろう。真綿で首を絞めるように、ゆっくりと優しく絡め取り、閉じ込める。そうしてどうしようもなく落ち切ったところで、この手を離そうとしたらどうなるだろうか。躊躇いがちにこちらへと手を伸ばしてくる彼女を見ながらそんなことを思う。彼女は知らない。俺がこんなにも自分勝手なことしか考えていないということを。知ってしまったら幻滅するだろうか。彼女にそんな風に思われてしまうのは、辛い。なら、今はもう少しだけ彼女の期待している俺であろうと思った。
「おいで」
そう言ってこちらへと手招きすれば最後の一歩で躊躇っていた彼女は箍が外れたように俺の胸へと雪崩込んでくる。擦り寄るように甘えてくる彼女の手触りの良い髪を梳きながら、もう片方の腕でぐっとその身体を引き寄せた。そうして彼女の温もりが、今この時には確かに俺の腕の中に居るということを実感する。けれど、どんなに願ったところで時間が止まってくれるわけもないから、どうやったらこの温もりをこの場所に止めておけるのか、そんな益体も無いことを考える作業に俺は戻る。終わらない自問自答を繰り返しながら、今日もこの人が俺の傍に居てくれることに安堵する。