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※上京前設定
生きていると何をやっても上手くいかない時というものがある。朝から目覚ましが鳴らなくて遅刻寸前で起き、髪をセットする時間もないままに登校。友人とは些細なことで喧嘩をして、部活でも思うようにいかない。その日は正にそういう時だったのだろう。帰宅をする頃にはすっかり気が滅入ってしまっていた。家族と一緒に居るよりも自分の部屋にこもって一人で居たい、そんな気分のままに夕食後は早々に自室に引き上げていた。何をするでもなくSNSに流れてくる情報をぼーっと見ているだけの時間はとにかく頭を使う必要はないが、時間を無為に浪費していることに他ならない。何もやる気がしていない状態のため、部屋の扉をノックする音への反応も当然ながら緩慢なものになる。横目で確認した来訪者はこちらの反応があってもなくても気にせずノックとほぼ同時に部屋に入って来る相手であったため、私がそんな状態であろうともいつもと大きな違いはないように思われた。しかしそう思っていたのは私だけのようで、ベッドの上で仰向けに寝転がってスマホをいじっているこちらを、彼は呆れたような目で見下ろしていた。
「入る時に声、かけてねーけど」
「んーそうだね。でもわかってるみたいだからいいよ」
「ならこれからもかけなくていいんだな」
「それとこれとはべつー」
「チッ」
その舌打ちは言われた内容よりも、いつまでもスマホから目を離そうとしない私の態度に向けられているように思われた。いつもの私ならば彼が部屋に入ってきた時点で体を起こし、きちんと顔を見れるような体勢で座り直す。そして、何か用事があって来たが自分からは切り出せない彼の代わりに話を振ってあげているだろう。だが、今日はとにかくそういう気分になれなかった。どうせ何をやっても上手くいかないし、この上で彼とも喧嘩なんてことになったら目も当てられないから、もう放っておいて欲しいという気持ちの方が強かったのだ。だから怒って出て行ってしまうような態度をとっているというのにん、彼は一向に出て行こうとしない。普段の彼ならば痺れを切らしてとっくに出ていってしまっている頃だろう。不思議に思い、少しだけスマホから目を外してベッドの横に立つ彼を仰ぎ見る。目が合った、と思った瞬間、彼は無言でビニール袋をこちらに向けて突き出してきた。
「なにこれ?」
「やる。から起きろ」
「え、ちょ」
今にも手を離しそうだったので、慌てて起き上がって受け取ったそれはひんやりとした冷たさをまとっていた。近所にあるコンビニのロゴの入ったその袋の中にはアイスクリームが入っていた。
「買ってきてくれたの?」
「ポテチ買いに行ったらアイス食べたくなったんだよ」
「私の分も買ってきてくれたんだ」
「一人だけ食ったって分かったらあとで文句言うだろ」
「でもこれ、私の好きな味だよね」
「はぁ? たまたまだし」
「ダッツはたまたま買うようなものじゃないと思うけどなぁ」
「あーもうごちゃごちゃうるせぇ! 溶けるだろ! さっさと食えよ!」
誤魔化すようにそう言って、机の椅子にどかっと座り込む。言うだけ言って部屋を出て行くものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。とりあえずせっかく買ってきてくれたのだし溶けては困ると思い、袋からアイスを取り出して蓋を開ける。スプーンもきちんと入っていることから、初めから私が自分の部屋で食べることを前提としていたことがわかる。行儀が悪いと分かりながらも、ベッドの上に腰掛けたまま食べ始めると、机についた肘の上に顎を乗せて彼がじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「美味しいよ、ありがとう」
「あ、そ。よかったな」
「食べる?」
「いらねぇ」
「食べるよね?」
「だからいらねぇって」
「はいタイガくん、あーん」
立って目の前まで行きスプーンを口元まで持って行くと、これ以上の抵抗は無理だと諦めたのか渋々ながらに口を開けてくれたのですかさず口の中にスプーンに乗せたアイスを入れる。この状況で彼が食べてくれたことが嬉しくて、思わず口元がだらしなく緩んでしまうのが自分でも分かった。それに対して今度は下から呆れたような視線が向けられているのも分かっていたが、敢えてそのことには気付かない振りをした。こんなことで機嫌を良くする私が単純だと言いたいのだろうが、単純で結構だった。
「気済んだかよ」
「えーここで済んでない、って言ったらまだ付き合ってくれるの?」
「ぜってぇやだ」
「だよねぇ」
「つーかそれ姉貴に買ってきたんだから、俺に食わせてないで自分で食えばいいだろ」
「…………タイガくんはさ、どうしてすぐそういうことを言っちゃうのかなぁ」
「は? どういう意味だよ」
「将来女の子泣かせになりそうでお姉ちゃんは心配です」
「意味わかんねー。そもそも女嫌いは姉貴のせいだろ」
「人のせいにするのは良くないよー」
会話の合間に食べ進めていたアイスはあっという間になくなってしまった。残念、せっかくタイガくんが買ってきてくれたのに。先ほどわざわざ買ってきたわけではないと意地になって否定していたのに、私のために買ってきたことをぽろりと零してしまうあたり爪が甘いと思う。同時に、そういうところがタイガくんの魅力だとも思う。基本的に彼は嘘が吐けない、真っ直ぐなタイプなのだ。だから、口ではなんだかんだ言いながらも身近な相手の異変を黙って見過ごすことができない。
「部屋戻る」
「うん、ありがとう」
「別に……ほんとに戻っていいんだな?」
「うん、もう大丈夫だから。心配かけてごめんね」
反論しようと口を開きかけたところで、逡巡したようにぐっと口を噤む。心配なんかしてねぇ!と反論したところで私を喜ばせるだけだと気付いたのだろう。その様子も可愛くて、少し上にある彼の頭に手を伸ばしてなでなですると勢いよく手を振り払われた。ひどい。
私はどうも昔から弟のことを語りすぎる傾向にあるらしい。特に付き合いの長い友人たちのほとんどが「あのね」と切り出しただけで、手を振って話を遮る始末だ。口を開けば弟の話をしているかと言われると全くそうでもないのだが、みんなこぞって「ご馳走様です」と聞き流す。そんなわけで大学進学と同時に上京した私は、弟の話を人前ですることをしなくなった。別に弟のことが嫌いになったわけではないし、今も弟のことは好きである。ただ、私も良い加減弟離れをする必要があるな思っていたし、以前のように知り合いに弟の写真を気負いなく見せるわけにはいかなくなったことから、丁度良い機会だと思ったのだ。
誤算があったのは、弟もまた、私と一緒に上京をしてきたということだろう。東京の大学へ行くことのデメリットの内の1つが弟と頻繁に会えなくなることだった私としては、彼も上京してくれたことはとても嬉しいことだった。往復6時間をかけて実家に帰省をせずとも、弟と顔を合わせることが可能なのだから。可能なだけで、実際に会いに行けばそれはそれは鬱陶しそうな顔をしてくれるのは目に見えているため、顔を合わせるのは多くても月に1回程度に留まっている。というのも、思春期を向けて所謂反抗期というものを迎えた弟は家族の中でも私に対して取り分け邪険にするようになったからだ。中学生にもなって姉と仲良しこよしでは男としての体面がどうたらこうたらというその気持ちは分かるので、私の方でも無闇に連絡を取ることは避けていた。姉弟揃って東京に行くにあたり両親からも弟のことを気に掛けるように頼まれているので、時々「最近はどうしてる?」といった旨のメールは送るが、「普通」「別に」という実に中身のない返事しか来ない。そのくせ、何か頼み事があると向こうの方から連絡をしてくるあたり何とも言えない気持ちにさせられる。
今も弟からの着信を告げるスマホを片手に、珍しく私は電話に出るのを躊躇っていた。ここで電話に出なかったら、彼はもう一度電話をかけてくるのか、それともメールで用件を送ってくるのか、はたまたもう連絡をしてこないのか。気が長いタイプではないので、恐らく留守電応答になった瞬間に切って、直後にまた掛け直してくるであろうことが容易く想像できた。こうしている間も一向に電話に出ない私に対してイライラしながらコール音を聞いているのだろう。そんなことを考えると、結局今日も私は根負けして通話ボタンをスライドするのだった。
「もしもしー」
『出るのがおせぇ』
「第一声がそれはお姉ちゃんどうかと思うなぁ。久々の電話だよ? もうちょっと何かあるでしょ」
『はぁ? 出るのが遅かったのは事実だろ。他に言うことなんかねーよ』
それを聞いた瞬間に私は通話終了ボタンをタップしていた。どうせまた直ぐに電話がかかってくるのは目に見えているので、スマホを片手に持ったまま辺りを見回して適当に座れそうなところを探す。反抗的な態度を取るようになった弟に対して最近ではこういう対応をすることが増えてきた。親しき仲にも礼儀あり。反抗したい気持ちも分かるが、最低限の挨拶もできないような子に育ってもらっては困るという彼の将来を慮っての対応である。別に、断じて、素直じゃない弟への意趣返しなどではない、多分。日差しを遮る木陰のベンチという丁度良いスポットを見つけて座ったところで、再度着信が入った。今度はノータイムで電話に出てあげた。
『なんで切るんだよ!』
「だからさっきも言ったじゃない。他に言うことあるでしょ? 分からないならもっかい電話切っちゃうよ」
『チッ……別に、特に変わりはねーよ。飯もちゃんと食ってる』
「んーまぁぎりぎり合格ってことにしてあげましょう。久しぶり、タイガくん」
『おう』
「で、今日はお姉ちゃんに何のお願い事かな?」
『……今度のオバレのライブ』
「ん? エーデルローズ生なんだからチケットなくても関係者席あるよね?」
『だからチケットじゃねぇよ、物販』
「タイガくん、お姉ちゃんは何でも屋じゃありません。オバレの物販どれだけ大変だと思ってるの」
『俺だって並んでも良いなら自分で行ってるっての』
「はいはい、人混みも女の子も苦手なくせに見栄張らなくていいよー」
『ぐ……』
「上の人にお願いしたらグッズくらい回してもらえるんじゃないの? それかカヅキくん本人に聞いてみたら良いじゃない」
『そんなダッセェことカヅキさんに言えるわけねぇだろ!』
「そのダッセェことを私に言うのはいいわけね」
『は? 姉貴は別だろ』
思わず次の言葉に詰まってしまった。意図してこういうことが言えるタイプではないので、間違いなく素で言っているのだろう。狙いすましたかのように意地を張って使わない呼称で呼ぶのも、決してわざとじゃないというのだから勘弁して欲しい。空いている方の手で顔を半分覆いながら、叫びだしたい衝動を何とか堪える。こちらの反応がないことを訝しんでか『何かあったのか?』とやや心配そうなニュアンスを含んだ声が聞こえてくるが、この上追い打ちをかけられている気持ちになるので本当に止めて欲しい。
『おい、返事しろよ』
「あーごめんごめん。何でもない」
『……忙しいんなら切るぞ』
「ん、もうちょっとなら大丈夫だよ。とりあえずタイガくんのお願いは分かった」
『じゃあ……!』
「ストップ、まだ引き受けるとは言ってない。私にも都合があるから検討する時間をちょうだい」
『わかった』
「決まったらなるべく早めにこっちから連絡するから。タイガくんどうせ電話出てくれないだろうからメールするね」
通話が終了したことを確認すると、手帳を開いてオバレのライブの日程を確認する。今回の物販はチケットを譲る同行者に代行をしてもらう予定だったので、ライブの入場開始2時間前までバイトのシフトが入っている。それなりに親しい相手であれば追加で代行をお願いすることもできるが、今回の相手はまだ1回しか会ったことがないためちょっと頼み辛い。となると、取れる選択肢はそう多くはなかった。まずは仲の良いライブ友達とバイト先の子にそれぞれ連絡を送り、返事を待つ。そして最後に<とりあえずリスト送って。でも買える保証はしないからね>という文面を作成して、未送信BOXに保存をする。これを送るのはもう少し後になってからでも良いだろう。
「甘いなぁ、ほんと」
なんだかんだ言ったところで、まだまだ弟離れができる気がしない。